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旅の3日目は、北部ギリシャ観光のハイライトとも言われるベレヤとペラを訪ねた。パウロは第二回、第三回の伝道旅行において、ここベレヤで伝道活動をしている。静かな町の佇まいの一角に「パウロの伝道記念碑」があった。等身大のモザイク壁画のパウロの顔が、あたかも私たちを歓迎しているかのように見えた。パウロとシラスの語った福音にベレヤの人々は熱心に耳を傾けたという聖書の記述がある。パウロの説く話に素直に心を開いた当時のベレヤの人々を思い、好感と親近感が湧いてきて、私にとって忘れがたい町のひとつとなった。
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パウロの伝道記念碑 |
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一方、アレキサンダー大王と父フィリポスII世の生誕地でもあるペラの遺跡群と古代アゴラは、私が想像していたよりもこじんまりとした遺跡群だった。現在まだ発掘が続けられているとのことである。ここペラは、その昔BC4世紀にはマケドニヤの首都として栄えた所だが、今は遠い昔の栄華の面影も薄かった。しかし、この地から、アレキサンダーは大帝国建設の遠征に旅立ったのである。繰り広げられた壮大な歴史ドラマの一端をあらためて思い起こした。
帰路はその夜の宿のあるギリシャ第二の都市、テサロニケへと向かった。パウロも2回伝道旅行でここを訪れている。テサロニケはアレキサンダー大王の義弟カサンドロス(Kassander)によってBC316年頃拓かれた都市とされている。その都市名の由来は、アレクサンダー大王の妹でもある、カサンドロスの妻の名前(Thessaloniki)に因んでいると言われている。現在は、文化、教育の中心でもあり、テサロニケ大学はバルカン半島最大の規模を誇るということである。ビザンチン様式の建造物の残影が幾箇所にも見られた。ビザンチン建築の粋を集めたギリシャ最大のアギオス・ディミトリオス教会の偉容に歴史の重さを感じた。何回かの大火にあった教会の現在の建物は20世紀初頭に再建されたものだという。聖ディミトリオスが幽閉され、後に埋葬されたクリプト地下聖堂にも7世紀のフレスコ画やモザイク画が見られ、ビザンチン時代の芸術・文化の一端に触れた。
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翌日は、パウロがヨーロッパで最初に伝道した場所とされているピリピを訪れた。途中、遠く残雪におおわれたパンガエオン山頂が早春の日差しに映えて美しかった。ヨーロッパにおける最初の伝道地、ここピリピで、パウロとシラスは主の福音を熱く説いたのであろう。また、パウロが収監された牢獄の獄吏と家族が劇的に救われた場所でもあることが聖書には記されている。その牢獄とされる洞穴が今でも残っていた。今、こうして同じ場所に立っている私たちの心に「使徒の働き」16章の記述が生々しく迫ってきた。 |
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ピリピはアレクサンダー大王の父フィリポスII世によって金鉱を開発するため造られた都市で、その名も彼に由来している。広大なピリピ遺跡群から当時の栄華が容易に偲ばれた。またピリピは、BC42年のピリピの戦いによって、ブルータス・カシアス連合軍側がアントニウス・オクタビアヌス連合軍に敗れた戦場でもある。この敗戦によってピリピはローマの殖民都市となる運命にあった。ローマ領となってからも交通の要衝として栄えたらしい。 |
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