旅の第一日目は、パリのシャルルドゴール空港で乗り継ぎ、ギリシャの首都、アテネの宿に深夜到着。日本からの機上の長旅からようやく開放されたその夜の私たちは、そのままベッドに直行、疲労困憊の体を休めた。幾たびかの歴史の変遷を重ねた世界文明発祥の地、ギリシャという国土に思いを馳せながら私は眠りに就いた。  
     
アクロプリスの丘


 翌日、晴れ渡ったコバルトブルーの抜けるような空のアテネの朝を迎えた。最初に訪れたのは、アクロポリスの北西の麓にある、名所、元評議所のあった「アレオパゴスの丘」(Arios Pagos)であった。眼下に町を見渡せる小高い岩山のアレオパゴスの丘からは、木立の中にヘファイストスの神殿(Temple of Hephaestus)、赤い屋根のアッタロスのストア(Stoa of Attalus)古代アゴラ(Ancient Agora)など、そして右上には威容を誇るパルテノン神殿が鎮座するアクロポリスの丘(Acropolis)などが望め、これらの遺跡群を前にアテネの黄金期、遠い昔の古代歴史に思いを馳せた。
 パウロは、パルテノン神殿が望める、この岩山の真ん中に立ち、大勢のアテネ市民の群集を前に毅然と「真の神」について熱く説いたのであろうと想像する。「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」(使徒7:24)

 
         
左から赤い屋根のアッタロスのストアとパルテノン神殿  
       
 アクロポリスの丘に聳え立つパルテノン神殿は、「ドリス式建築の最高峰」と言われているが、実際目の前にしてはじめて頷けた。 このパルテノン神殿もまた幾多の歴史の変遷を得ている。指導者ペリクレスの提唱により、BC447年着工したパルテノン神殿はBC438年に落成した。 その後、ローマ帝政時代、キリスト教が国教になったときは、教会として利用され、15世紀トルコ領になると回教寺院として改修されたということだ。
 午後の訪問地、コリントでは、コリント遺跡、コリント運河、遺跡博物館などを訪れた。橋の上から眺める幅狭く深い地峡のコリント運河の景観は圧巻だった。残念ながら船の航行は見られなかった。このサロニコス湾とコリンシアコス湾を結ぶ深い地峡に運河を設けようと最初に実現を計ったのは、ローマ皇帝ネロだったことを知り、悪名高い皇帝ネロのイメージがいくらか違って見えてきた。実際に運河が開通したのは19世紀末とのことだ。
 その後ケンクレヤ港跡を訪れた。どこまでも澄み渡った紺碧の空と藍色の静かな水を湛えたエーゲ海の美しさは、私たちの旅情を一層深めた。パウロは第二回目の伝道旅行で、このケンクレヤ港からエペソに向け出帆している。また、パウロが一つの誓願を立てて髪を剃った場所でもある。(使徒18:18) 聖書の記述の一句一句が生き生きと心に迫ってくる。