OCC
OBI お茶の水聖書学院

聖書の世界研修旅行 旅行記(3)

→戻る

第5回 2007年3月14~23日 エジプト・ヨルダン・イスラエル

◆OBI聖書の世界研修旅行記①  (第14期生・伊藤 洋子)

 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私はいのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。………」申命記三十19。モーセはイスラエルの全会衆の前に、いのちor死、祝福orのろい、という二者択一を迫っている。まさに実存的だ。モーセは会衆各自の前にどちらを選ぶのか、を迫っているのだ。そして「あなたはいのちを選びなさい」と明言している。神のいのち、祝福にがらなければ人には“いのち”を得る保証は何処にもない。
伊藤イエス・キリストがイスラエルの会衆にさまざまに語ってこられた全ては「わたしが道であり真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」この一筋の道だけが、主にがるのだ。
3月18日聖日、ヨルダンのムカウィール〔洗礼者ヨハネの斬首の場〕へ向かう車中、藤原師は説教の中で、モーセはイエス・キリストを指し示した者、待ち望んだ者、共に歩んだ者であるとお話しなさいました。
「わたしはあなたとともにいる(出エジプト三12)」        このみことばは、旧約聖書に終始一貫しているもので「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」へブル十三8………実にインマヌエルの主なのだ。
今回も団長となられた飯島師はこの旅行を「みことばの現場に立つ」目的と言われた。ネボ山〔ピスガの頂き〕に立って白く霞んだ遠い地、神さまがモーセにお見せになった数々の国を私たちは望んだ。そこから先に進むことが許されないモーセの心のうちを噛み締めて。
鶏鳴教会はカヤパの官邸跡に建っている。すでに縛られ、殴られ、引き回されて、主はカヤパの官邸の地下牢で一夜を明かされた。骨の髄まで冷え切るような石灰岩の洞窟の牢は、囚人を鞭打ち鎖にぐところであった。肉を引き裂かれ血まみれになった主がそこにおられた。
午前2時にモーセが辿ったと言われるシナイ山に登り、ダビデがエブス人から奪ったエルサレムを歩き、アッシリア軍から泉を守ったヒゼキヤの水道。それらの現場の確かな手応えは私の肉体を通して何を響かせてくれたのか。
ピラトは「この人を見てごらんなさい」〔エッケ・ホモ〕と、ユダヤの群集にイエス・キリストの罪を認められない、と言った。しかし、群集は「十字架につけろ」と叫び続けた。モーセは水がないと石打にされそうになったではないか。ユダは一人の個人的な男であろうか。確かな手応えとは「私もユダなのだ」という心の楔であった。
2007年3月末日記す

ページトップへ


◆OBI聖書の世界研修旅行記②  (第13期生・中島總一郎)

 OBI「聖書の世界」研修旅行一行16名は、エジプト、ヨルダン、イスラエルを訪れた。3月14日~23日の10日間であった。その目的は「御言葉の現場に立ち、神の言葉の真実を実体験する」ことであった。出エジプトからモーセが約束の地を見下ろすネボ山の頂ピスガに立つまでの「モーセの世界」と新・旧約聖書の諸事件が展開された各地を訪れ、後半はイエス・キリストの活躍されたエルサレムとその近郊の同じ場所を歩くというルートであった。
出エジプトルートでは、聖書名でメラ、レピデム、エツヨン・ゲベル、アルノン川、ネボ山を辿ったが、中でもモーセが十戒を授与されたシナイ山へ、午前2時起きで星降る岩道を、ラクダを横目に登ったのは圧巻であった。
エルサレムではベツレヘムを含めイエス・キリストの生と死と復活の現場を同日に観た。ベツレヘムの生誕教会、ゴルゴタの丘の上に建ち、十字架につけられた主イエスの死体を納めた墓のある聖墳墓教会、復活して昇天して行かれたオリブ山である。
ピラトが許そうとして民衆の前に主イエスを引き出して「エッケ・ホモ(この人を見よ)」(ヨハネ一九5)と言ったエッケ・ホモ教会、主イエスがピラトの裁判を受けられた敷石の場ガバタ(同13)、何度も倒れながらもゴルゴタの丘へ向かってご自身がつけられる十字架を負って歩まれた(同17)ビア・ドロローサ(悲しみの道)、盲人の目に泥を塗って洗いに行かせて開かれたシロアムの池(ヨハネ九7)などなど、どれも忘れられない聖地体験であった。
中でも、オリブ山のゲッセマネの園にある「万国民の教会」では、主イエスが血の汗を滴たらせて祈られた岩盤の前に座って、贖罪の十字架にかかる前に私に代わってどんなに苦しんでくださったか主イエスのご愛を思い、ひとり感謝の祈りを捧げ、感涙の静けさに浸った。また、ベツレヘムの主イエス・キリストがお生まれになった生誕教会では、生まれた場所を見、飼い葉桶のあった場所を手で触り、ヒエロニムスがヘブル語聖書をラテン語に「ヴルガタ」として翻訳した地下室に入って代表祈祷したが、神の人類への深い愛に迫られ、息が詰まって途切れ途切れになってしまった。
中島御言葉の現場に立って、真実な神の言葉を体験することによって、聖書を読んでいても実際に自分で見てきたその場所の状況が鮮明に脳裏に出てきて、御言葉が生き生きと自分に入ってくるようになった。これは今回の旅行の大きな収穫である、信仰生活の財産となった。 

ページトップへ

© OBI 2016