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OBI お茶の水聖書学院

聖書の世界研修旅行 旅行記(2)

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第4回 2005年3月15~25日  ギリシャ・トルコ 
◆副学院長 藤原導夫

『パウロの足跡を訪ねて』  

①「ピリピ」

(OBIニュース14号 2006.1.20発行 より)

はじめに

 お茶の水聖書学院主催による「聖書の世界」研修旅行が2005年春に行われた。3月5日から25日までの11日間にわたる日程であった。パウロの足跡を辿るということでギリシャとトルコの地が選ばれた。これらは、主にパウロの第2回と、第3回の伝道旅行の舞台となった地域である。団長は聖書の地理に造詣の深い飯島勅牧師、私はチャプレンとして同行し、添乗員も入れて総勢20名であった。
その旅のことを懐かしく思い起こしながら、パウロの伝道旅行そのものと、その跡を辿って私たちが体験させられた事柄などを重ね合わせるようにして記してみたい。実際には、学院での私の講義と旅行記のブレンドといった感じである。まず初回は「パウロとピリピ」、次回は「パウロとコリント」、最後は「パウロとエペソ」というタイトルのもとに3回シリーズで記すこととする。

聖霊の導きによって

 パウロの第1回伝道旅行(紀元46~48年頃)は、シリヤのアンテオケ教会から祈りと支援を受けて、バルナバやヨハネ・マルコなどと共に実行された。その伝道の舞台は地中海に浮かぶキプロス島や小アジア南部地域であった。
第2回伝道旅行(紀元49~51年頃)も初回と同じようにシリヤのアンテオケ教会から送り出されたが、今回パウロと同行したのはシラスであった。パウロたちはシリヤから陸路を取り北上した。旅の途中にテモテがルステラで一行に加わった。パウロはアジアで福音を伝えるつもりであったが、聖霊にそれをはばまれて、不思議にもヨーロッパへと導かれたのであった。
事情はこうである。エーゲ海に面した小アジアの西端トロアスまでやって来たパウロはある夜、不思議な幻を見た。一人のマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロはただちに行動を起こしてマケドニヤに入り、当時のマケドニヤの主都であったピリピへと赴いた。
具体的な名前そのものは記されていないが、「使徒の働き」において、ここから「私たち」章句が始まっていく。つまり、この文書を記したとされる著者ルカがこの時点からパウロ一行に加わって協力した事実が、「私たち」という表現において読み取れるのである。そうすると、パウロはピリピ伝道の折には、シラス、テモテ、ルカという3名の強力な同労者を得ていたことになる。
ピリピという名前は、有名なアレキサンダー大王の父であったマケドニヤ王フィリッポス2世が自分の名前に従って、紀元前356年に命名したとされる。パウロの時代、この街は軍事的にも通商的にも重要な位置を占め、マケドニヤ地方第一の町となっていた。

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アンジスタ川とルデヤの洗礼

 ピリピ伝道における初穂は女性であった。ある安息日のこと、川岸にあった祈り場でなされたパウロの説教に、小アジアのテアテラ市出身で紫布を商っていたルデヤという女性が熱心に耳を傾けていた。主はルデヤの心を開いてくださり、彼女はそのメッセージを受け入れ、家族と共にバプテスマを受けたのであった。
当時の「紫布」は非常に高価なものであり、王族、貴族、高官、金持ちなどが用いていたようである。そのような商いに携わっていたルデヤはそれなりの利益を得ていたことであろう。彼女はパウロ一行を自分の家に宿泊させたと記されているが、パウロたちの伝道を物心両面から支える有力な信徒の一人となっていったことであろう。
アンジスタ川とルデヤの洗礼私たち学院生一行はピリピ郊外を流れるアンジスタ川を訪れた。そして、ここがかつてルデヤが洗礼を受けたと伝えられている場所へとガイドによって案内された。それは、周辺には何もない静かな場所であり、2メートルほどの小川が静かに流れていた。中州にはルデヤの洗礼を物語る白い記念碑がひっそりと立っていた。私たちは川辺に降りて、その水に手を差し入れてみた。さわやかな冷たさが手先から全身へと伝わってきた。“ここで、この川でルデヤは洗礼を受けたのだ!”言い知れぬ深い感動が心の中から湧き上がってきた。誰しもそうであったであろう。
私たちは川辺の石段に腰掛けて、共に讃美し、御言葉を読み、祈りの時をもった。そして、時空を超えてパウロやルデヤの世界に入り込んだ。多くの人の目に涙があった。神の救いの恵みに心打たれながら、私たちは深く静かな異国の自然の中にとけ込んでいた。

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ピリピの牢獄跡

 さらに、ルカが告げるピリピでの特筆すべき出来事は、看守の回心とその家族の救いである。パウロたちの伝道は占いの霊につかれた若い女奴隷の解放をもたらすが、それで利益を得ていた主人たちの怒りを買うこととなった。その結果、パウロとシラスはむち打たれ、投獄されてしまった。しかし、その痛みと苦しみの中で二人は神を讃美し、他の囚人たちはそれに聴き入っていた。
突如、地震が起こり牢の扉は開いたのに、不思議にも囚人たちは脱走しようとしなかった。その事実に驚愕した看守は、パウロの神を受け入れ、家族そろって洗礼を受けたのであった。ルデヤに続いてピリピ教会の礎となったであろう人々である。
ピリピに残るビザンチン時代に建てられた教会の遺跡から少し離れた一角に、ひっそりと隠れるようにその牢獄跡が残っていた。しかし、それは聖書にあるような数人の囚人が入れる牢獄にしては、あまりにも小さすぎるような空間であった。パウロたちが囚われていたのは、その牢獄ではなかったのかもしれない。
それでも、そのじめじめとしており、暗い感じの石室は、パウロたちの苦しみがどれほどのものであったろうかということを雄弁に今に伝えているように思われた。アンジスタ川の水に手を差し入れて、ルデヤの洗礼を思ったように、じめじめと冷たい石肌に手を触れて、パウロやシラスの苦しみを想像した。
牢獄後年、パウロが捕らえられてローマへと送られた時、そこで獄中書簡と呼ばれる「ピリピ人への手紙」が記された。その中で“主にあって喜びなさい”とパウロはくり返し勧めている。それは、「喜びの手紙」とも呼ばれている。しかし、このように喜ぶことを勧めるパウロはまた獄に囚われていたのである。普通なら自分も喜び、他の人に喜ぶことを勧めることができるような状況ではない筈である。
かつて、ピリピにおいてむち打たれ、獄に囚われながら、そこで神を讃美したパウロの姿と信仰をピリピ教会の人々は忘れることなく語り継いできていたことであろう。ピリピ教会の人々が、手紙を受け取って読んだ時に、かつてのピリピにおけるパウロの姿とローマにおけるパウロの今の姿が重なって映ったに違いない。それは、どのような状況下におかれようとも、“主にあって喜び、主を讃美する”姿である。
それを思って圧倒され、感動に捉えられ、私自身は時を忘れてその場に立ちつくしてしまっていた。しかし、旅のスケジュールは予定通りに進められていく。最後に残った私を急がせるガイドの声にうながされ、私は我に返って一行の後を追ったのであった。

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②「アテネとコリント」

  (OBIニュース15号 2006.4.28発行 より)

 今回のお茶の水聖書学院主催による「ギリシャ・トルコ・ツアー」の目的はパウロの伝道旅行の足跡を辿ることであった。パウロが実際に歩いたであろう道を歩き、パウロが実際に訪れたであろう場所を訪れるという体験は、これまでもっていたパウロ自身やその伝道旅行に対するイメージをさらに深めたり豊かなものとしてくれたように思う。前号ではピリピを訪れたことを報告させていただいたが、今号ではアテネとコリントでのことを報告してみたいと思う。

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アレオパゴスの説教

 成田空港から長時間かかって到着した最初の地はギリシャのアテネであった。最近では、オリンピックが開催された場所である。古くはソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ学問の都である。私たちが泊まったホテルは、あの有名なパルテノン神殿がそびえる丘のふもとにあった。長時間のフライトで疲れた私たちは翌日を楽しみにしながら眠りについた。
ギリシャ人で日本語を話せる女性ガイドは、私たちをまず最初にアレオパゴスの丘へと案内してくれた。ここは、かつてパウロがアテネの人たちに説教した場所である。その時のことは「使徒の働き」17章後半に詳しく述べられている。彼はアテネの街が偶像にあふれているのに怒りを覚えつつ、アレオパゴスの評議所でそのような社会に住む人々に向かって説教し、ストア派やエピクロス派の哲学者たちとも論じ合ったのであった。
アレオバゴスバスを降りて、私たちはアレオパゴスの丘に登っていった。それは草木の少ないごつごつとした小さな岩山であった。登り詰めたところにちょっとした広場があり、その岩壁に石版がはめ込まれ、ギリシャ語で何かが書いてあるのが認められた。ガイドは私たちをその周りに集め、それがパウロの説教であると説明した。私はたまたまギリシャ語新約聖書を持参していたが、それに照らしてまさに使徒の働き17章22~31節の言葉そのままがそこに刻まれていることを確認した。ガイドはそれをたどたどしく日本語に翻訳してくれたのであった。
私たちはそこで集まって記念写真を撮り、その後各自はしばし自由行動を許されたが、私はその石版の脇にたたずみ、パウロがこの説教をした状況を想像しパウロの心境を思ったのであった。聖書にはその時の様子が次のように記されている。「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った」(使徒17:32)と記されている。パウロはこのような反応にがっかりしたのであろうか。アテネと同じように八百万の神があふれている日本での宣教の難しさを思わされた。
しかし、聖書には更に続いてこのように記されている。「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった」(使徒17:34)。決して伝道は不可能なのではない。神様は必ず救われる人々を起こしてくださるという事実がそこにあることをあらためて覚えさせられ、アテネの地で日本の宣教のことを思いつつひとかたならず励まされたのであった。

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さびれ果てたコリント

 パウロはアテネでのそのような伝道を果たした後にコリントを訪ねている。私たちもパウロの後を追うようにしてコリントを訪れた。コリントと言えば、かつて学生時代に古代ギリシャの建物には「ドーリヤ式、イオニア式、コリント式」といった、特徴の異なった三種類の円柱があることを学んだことがあった。アテネで見た壮麗なパルテノン神殿の柱はまさにこのドーリヤ式であった。そして、コリントの遺跡博物館の庭にはこの三種類の円柱が置かれて見比べることができるようにしてあった。
コリントは中央ギリシャとペロポネソス半島を結ぶ地点に位置し、重要な通商路としてパウロの時代には栄えていた。この街でパウロは一年半滞在したと聖書にはある。そして、クラウデオ帝の命によりローマから退去させられてコリントに来ていたユダヤ人アクラとプリスキラの家に住み込んで、共に天幕作りをしながら伝道に励んだのであった。その結果として生み出されたコリント教会の様子は、パウロが残してくれたコリントの教会に宛てた二通の手紙によってある程度までうかがい知ることができる。
コリント私たちはコリント遺跡を訪れた。そこには巨大な7本の石柱を残したアポロン神殿跡とその周辺に広がるアゴラ(市場)跡があった。アポロン神殿は紀元前6世紀頃に完成しており、もともとは38本の石柱があったそうである。アゴラは1世紀のローマ時代に設けられ、そこでは様々なものが売買されていたようである。
パウロはコリント前書において偶像に捧げた肉の問題を取り上げている。偶像の神に捧げられた肉が市場で売られているかもしれない場合どうしたらよいのかという問題である。そのよう光景を私はこれまでは頭の中で想像していた。しかし、コリント遺跡を訪れ、巨大なアポロン神殿跡やそこに横たわるアゴラ跡に我が身を置いた時に、そのような光景が彷彿として浮かび上がってきた。神殿に詣でる沢山の人々、市場の喧噪の中であふれかえっている人々、そのような様子が眼前に再現されているような思いさえもったのであった。
パウロはその問題に答えている。「市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい」(コリント第Ⅰ・10:25)。何という大胆で自由な信仰であろうか。しかし、パウロは同時にこのようにも語っている。「もし食物が私の兄弟をつまづかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません」(コリント第Ⅰ・8:13)。この二つの相矛盾するような主張の中で、パウロは実際どのように生きたのであろうか。そして、この二つの言葉を聞いたコリントの人たちはそれをどのように理解し受け止めたのであろうか。
与えられたわずかな自由時間にアポロン神殿を近くに眺め、アゴラを散策しながらそのようなことを私は思い巡らしていた。信仰における自由と隣人への配慮はどのように折り合いを付けていけばよいのか。日本の社会にも似たような性質の問題が多くある。私自身はそれをどのように信仰的に整理したらよいのであろうか。またそのような社会に生きる主にある兄弟姉妹に対して、一人の牧師としてどのように信仰的指針や配慮を示していくことができるのであろうか。遺跡の中を歩みながら、私の心の中ではそのような自問自答が繰り広げられていた。

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③「エペソとミレト」 

         (OBIニュース16号 2006.8.30発行 より) 

トルコ入国時のパプニング

 私たちの旅は利用した航空会社の関係で、パウロの伝道旅行とは逆の道順を辿ることとなった。パウロはアジアからヨーロッパへと進んだが、私たちはヨーロッパからアジアへと入っていったのであった。
それはギリシャからトルコへと渡る国境でのことであった。バスは国境で私たちを降ろすことになっていた。そこには検問所があり、私たちはそこで通関手続きをしてトルコ側で待機している別のバスへと乗り移る予定であった。
しかし、手続きがスムースに運ばないのである。理由は分からないが寒風の中で数時間も待たされる羽目となってしまった。既にギリシャからのガイドもバスも帰ってしまい、検問所を越えないことにはトルコ側のガイドに会うこともできないという動きの取れない状態となってしまったのである。
日本からの女性添乗員が係官に掛け合うのだがらちの明かない様子であった。彼女は私たちにそっと「今日の係官は石頭だ」とつぶやいた。普通ならもっとスムースに運ぶのだそうである。その言葉の通りのことが起きた。係官は疑いを抱いたのか、一人残らずの荷物を調べると言い出したのである。私たちは言われるままに、すべての荷物を道路上に投げ出すようにして置かされ、スーツケースなどすべてを開いて係官に見せることを強いられたのであった。
最終的にはやっと許可が下りて、重い荷物を引きずりながらトルコ側で待っているガイドとバスへと向かったが、予定の時間をはるかに過ぎてしまっていた。日本とトルコとは古くから互いに友好的であるという印象を抱いてはいたが、今回の経験と夕暮れ迫る薄暗さも加わってか、何だかその印象がはかなくしぼんでいくような思いにさせられてしまった。

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エペソのアルテミス神殿

 現在のトルコはイスラム教国であり、至る所にモスクがそびえ立っていた。しかし、そのトルコにもまた聖書や教会史にまつわる遺跡があふれていた。その中でも私がとりわけ心引かれたのはパウロが伝道したエペソの街であった。第3回伝道旅行の際に、パウロはこの街に3年間も留まって伝道したのであった。
当時のエペソはアジア州の第一の都市であり、通商交易の拠点としても栄えていた。そこにおけるパウロの伝道は「アジヤに住む者はみな,ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」(使19:10)と言われるほどに盛んになされたのであった。
しかし、そこでの反対や迫害も激しかった。エペソには古代世界の七不思議のひとつに数えられているアルテミス神殿が建っていた。それはギリシャのアテネにある有名なパルテノン神殿の4倍大で、石造りの素晴らしい円柱が建物を支えて127本も並んでいたという。そこに祀られていたのが大女神アルテミスである。このアルテミスを拝むために周辺各地から多くの人々が集い、エペソの一大産業ともなっていた。アルテミス神殿
そのような性格の街におけるパウロの伝道はそのまま見過ごされるわけにはいかなかった。アルテミス神殿の模型を作って商売をしていたデメテリオという銀細工人が人々を煽動してパウロと福音に対して反対したのであった。結局パウロはそこから追い出されてマケドニアへと向かうこととなった。
私たち一同はアルテミス神殿が建っていたという場所を訪れた。しかし、そこは沼地のようなじめじめした低地に変わっていた。127本もあったという壮麗な石柱は一本だけが残されて見る影もないような姿で立っていた。その柱の上に一羽のコウノトリが羽を休めていたのが印象的であった。
エフェソスの博物館にはアルテミス神殿に祀ってあったという巨大な大理石の大女神像が収められていた。大理石は長い歴史の流れの中でくすんでしまっていたが、この女神を拝みに人々は集まってきたのであり、パウロはこのような偶像崇拝と戦ったのだということがひしひしと伝わってくるようであった。

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ミレトでの説教

 パウロは第3回伝道旅行を終えてエルサレムへ上ろうとした。しかし、エルサレムにも迫害が待っていた。パウロは港町ミレトにエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、最後の時を共に過ごしたのであった。人々はパウロのことを案じて涙ながらにエルサレム行きを止めたのであったが、パウロは動じなかった。
その時の様子とそこでパウロがなした訣別説教は使徒の働き20章に詳しく記されている。主イエスが「受けるよりも与える方が幸いである」と教えて生きられたようにパウロ自身も歩んできたこと、あなたがたもそのように歩んで欲しいとのメッセージが遺言のようにして語られたのであった。
私たちがミレトを訪れたのはちょうど受難週が始まる日曜日であった。ガイドはパウロがここから船出したであろうと言われている場所の近くにあり、今は廃屋となってしまっているパウロ記念教会の跡地に私たちを導いた。私たちは戸外の青草の上に座って礼拝を守った。礼拝
私は今回の旅行ではチャプレンとして奉仕させていただいたが、この日に説教するという特権に与った。場所はまさにミレトである。当然のように使徒の働き20章から説教した。もう30年以上説教してきた自分であった。しかし、聖書の世界ミレトに立ち、そこでなされたパウロの説教をテキストとして説教するなどということは思ってもみないことであった。それが実現したのである。この感動、この感激、この感謝はどのような言葉をもってしても言い尽くすことはできない。それは、説教者として歩んできた私にとって決して忘れることのできない出来事となったのであった。

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